〜多様な環境で遊びをつくるキャンパス〜
海外での学びと日本への意識
「キャンパス」という言葉を聞いて思い出すのはどんな場所だろうか?
広辞苑によれば「①(大学などの)構内。敷地。校庭。②転じて、大学。」とある。今からもう10年近くも前になるのかと少し驚くけれど、30歳台も後半になって大学院で学ため渡米を決意し、英語もろくにできない中、どうにかこうにか入った米国フロリダ州にある大学には、フロリダという平らな土地柄もあって、広大な敷地が広がっていた。まさにイメージする「キャンパス」だ。8万人も収容する大学を象徴するフットボール場、煉瓦造りの校舎、図書館の前には青々とした芝生が果てしなく続いていた。
大学院では、教育学部にあるスポーツマネジメントの修士課程で学び、そこには地元米国はもちろん、アジア諸国や欧州、中東や中南米などあらゆる場所から多様な学生が集まっていた。もちろん、スポーツを通じた経営学やマーケティング、大学スポーツの仕組み(米国はとんでもない規模で大学スポーツが運営されている)など学んだけれど、自分が成長した要因は、授業の内容ではなく、そこにいる人たちとは「わかり合えない」という環境だったのかもしれないと今にして思う。
国籍も、性別も、あるいは年齢も本当にさまざまだった。クラスメートの最高齢は自分だろうと勝手に予想していたけれど、倍近く歳を重ねた70歳台の学生がいたのは驚きだった。ともかくバックグラウンドが多様すぎるし、会話をしていても前提が異なりすぎて、根本的で原始的なことから説明する必要があったり、結局はわかり合えないという結論に達することも少なくなかった。そして、とても面白かったのは、日本から1万㎞以上も離れた場所で、むしろ自分の国について考えたことだ。ある種の失望や物足りなさを感じたことも渡米した一つの理由だったけれど、皮肉にも、遠く離れた場所から見ることで、日本を強く意識して、その良さ悪さに気づくことになった。さらには、多様でわかり合えない人に囲まれることによって自分自身についても考えることになった。自己と他者、そしてその「あいだ」を強く意識する経験は、自身の軸を発見し、成長したことに大きく寄与したのは間違いないと思う。
世界最高峰のスポーツ教育機関
大学院在学中から、幸運なことに米国のスポーツ教育機関で働く機会を得た。IMGアカデミーと聞けば、テニスに詳しい方なら知っているかもしれない。かつてはアンドレ・アガシやマリア・シャラポワ、日本人であれば錦織圭が現地で学び、トップアスリートとして成長したボーディング・スクールだ。テニス以外にも8つのスポーツを展開していて、55面のテニスコートに加え、9つの野球場、20面のサッカーフィールド、誤解されやすいのは、そこはアスリート養成所ではないこと。中学・高校の学校を持ち、大学への進学率は9割を超える。勉強がおろそかになれば、スポーツ活動を制限されるほど、全人的な教育に力を入れる教育機関だ。
世界の80を超える国々から生徒が集まるキャンパスは、まさに多様性に溢れていた。在籍中に見たシーンで、とても印象に残っているエピソードの一つが、日本人のテニスの生徒が、コート上で、テニス“以外”のことで戦っていたことだ。
テニスの試合によっては「セルフジャッジ」を導入することも多い。つまり、審判をつけず、選手同士が例えばコートの中に入ったか否かをジャッジする。その日、日本人の生徒は中米出身の生徒と試合をしていた。打ったボールは相手のオープンスペースに見事にコントロールされ、ポイントを取った……と思ったら、相手が「アウト!」と宣言したのだ。スポーツマンシップということで言えば、もちろん褒められたものではない。しかし一方で、なんとしても勝つという執念のようなものは、良いか悪いかはともかく、日本人が一般的に持つメンタリティとはだいぶ異なることがとても興味深かった。日本の大会でもセルフジャッジを採用していることもあり、その場合はアウトかインか微妙な時は相手のボールをインとするような空気感というか慣習のようなものはある。
その時、日本人の生徒はインだと主張した。しかし相手もアウトだと譲らない。外から見たら明らかにインだったけれど、日本人の生徒が諦めるのかと思っていたら、彼女はインであることをまだ拙い英語でロジカルに説得を試みていた。それでも相手が納得しないので、今度は大会の審判員を呼び、状況を説明し、冷静な判断を仰ぐという一連の行動に、大きな「成長」を見たと感じた。英語もままならない生徒が日本からやってきて、言語も、暮らしてきた環境もまったく異なるクラスメイトたちと生活し、時には衝突しながら、理解し合うことを学ぶ。多様な環境だからこそ生まれるダイナミックな成長の機会が、そこにはあった。
突き抜けたいなら、遊ぶ
興味深い研究を一つ紹介したい。イギリスの研究者、ポール・フォードらがイングランド・プレミアリーグのユースチームを主な対象にしたリサーチを行った。「試合」「練習・サッカー活動」「遊び」とカテゴリーを分け、6〜12歳の時にそれぞれに費やした時間の差異をユースチームのメンバーと、ユースチームではない一般的なサッカーチームのメンバーとで比較した。その結果、試合の時間はほぼ変わらなかったが、ユースチームのメンバーは一般的なサッカーチームのメンバーよりも多く練習していたことがわかった。
なるほど、それはそうだろう。たくさん練習すれば上手くなる、というのは当たり前かもしれない。しかし、面白いのはその先だ。
ユースチームに所属し、その後トップチーム、つまりプロになったメンバーは「遊び」に費やした時間が長く、ユースチームに所属したがプロにならなかったメンバーおよび一般的なサッカーチームのメンバーは、その時間が短かったのだ。つまり、ある程度のレベルアップには練習量が大事な一方、突き抜けたレベルに行くには「遊び」が重要、ということになる。
先に紹介したIMGアカデミーでも、実は「遊び」の場を充実させていた。ビーチバレーのコートやストリートバスケのリング、卓球台、プール、あるいは生徒が集まるリクリエーションスペースなど、競技や年齢を超えて集まる「場」を重要なものとして作っていたし、実際にサッカーの生徒と野球の生徒がビーチバレーで対戦して異ジャンル、異年齢の交流があったり、他者を理解しながら、自己の軸を見つけていく、そのようなとても健全な場所はキャンパスの中でも重要な拠点となっていた。
「遊び」はスポーツに限らずさまざまな文化活動や、あるいは特定の年齢を超えて、たとえば仕事にも言えることかもしれない。ある程度のレベルまで達するには、トレーニングや勉強をたくさんすれば良いのかもしれない。しかし、突き抜けた場所(熱狂できたり、豊かで面白い、そんな場所だろうか)に行きたいのならば、心の赴くまま、十分に遊ぶこともとても大事だと思えてくるのだ。ビジネスを成功させなければ、大会でよい成績を収めねば、と汗を流し頑張っている人たちは、遊んでいる時間がない、と考えるかもしれない。しかし、遊ぶ時間を削っているからこそ、何かを達成できないのではないか、そんな視点を持つことができれば、何かが変わるかもしれない、などと思うのだ。
学びをアップデートする場
東北の地に誕生した「the campus」は、学びをアップデートする場所なのではないか、と期待している。まず、このキャンパスを作っている人がとても多様だ。設備のプロからクリエイター、料理人、建築家、それからキノコ研究家のような人もいる。生きてきた道もバラバラで、到底理解し合えないような気もするけれど、むしろそれだから個性が光り、深いところで繋がっているようにも思う。これから集まってくる人たちも、きっと多様だ。キャンプやスキーをする人もいるだろうし、植物やキノコを育てたり、運動したり、環境について勉強したり、音楽を楽しんだり、もしかしたら海外からやってくる人も含めて老若男女が混じり合って、遊びながら学んでいく。
土地の在り方そのものも面白い。基本的には自然の山だから、起伏がある。平らに造成された場所で生活する人が多いと思うけれど、身体的なバランス感覚やコアを自然と鍛えるには、不安定な場所の方が良かったりする。子ども園などで、あえて凸凹の場所や、小高い山を園庭に作ったりするのは、まさにそのような狙いがあったりするのだけれど、ここthe campusはキャンパス全体が起伏のある山だから、ただ歩き回るだけでも、身体性を高めるにはとても良いように思う。
都市部にいるクリエイターが、ここをレジデンスとして使って新しい創作を行うのもいい。運動無関心層と言われる、身体を動かすのを面倒だと思い、ひいては健康に悪影響を与える人たちにも、ここなら楽しく歩いて、おいしいご飯を食べて、多様な人と交流できるかもしれない。あるいは、部活動改革として、学校で行われていた部活動が地域化する流れの中で、複数の学校から生徒たちが集まり、学校や競技、種目、年齢を超えて交流し、楽しく体力を向上させていくのも可能だろう。
東京都のビルに囲まれた場所で、この原稿を書いている自分も、〈the campus〉を頻繁に訪れたい。多様な人々と、身体性を伴って、遊びながら学び続けること。そんな人生は最高かもしれないな、と思った。
田丸 尚稔(たまる なおとし)●福島県生まれ。出版社でスポーツ誌等の編集職を経て渡米。フロリダ州立大学にてスポーツマネジメント修士課程を修了し、IMGアカデミーのアジア地区代表を務めた。現在は日本に帰国し、スポーツ教育の新しい事業に取り組む。渋谷区部活動改革エグゼクティブアドバイザー。東京カリー番長・アメリカ主任。筑波大学大学院在籍(スポーツウエルネス学・博士後期課程)